「さばかれえぬ私へ 」「MOTコレクション 被膜虚実/Breathing めぐる呼吸」 | 東京都現代美術館

お待たせしました後編!

今回、書きたいことはたくさんあるのに全くまとまらず、こねまわして結局まとまり切っていないのですが、たまにはこういう回もいいかなと思ってそのまま提出しています。いつもとは文体も変えて「だ、である」口調なのでちょっと強く感じるかも…?

正直、この展示を見て私が感じたことを書くにはどうしても政治的な面に触れねばならず、どこまで踏み込むべきなのか、どう取り上げるのかとても悩んだのですが、少しでも作品に興味を持ってもらえたり、美術を考える小さなきっかけになればいいなと思い書きました。

稚拙な文章ではありますが、どうか伝えたいことが伝えたいままにあなたに届くよう願います。

 

この文章は個人の感想であり、正解や作り手の意図を探るものではありません。
また、これを読むあなた固有の鑑賞体験を阻害しようとするものでもありません。

 

さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展

 

唐突な質問だが、「美術」とはなんだろうか?

 

視覚的、空間的な美を表現する造形芸術。絵画・彫刻・建築・工芸など。明治時代は、広く文学・音楽なども含めていった。「古―」「仏教―」

デジタル大辞泉より)

 

辞書の定義では視覚に拠った芸術のこととされている。

美術を学んでいる自分もはっきりとした答えを出すことはできないが、近頃の美術のことを考えると上記は少し狭い定義のように思える。

それを改めて感じたのが「さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展」(会期は2023618日まで)

 

東京都とトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)は2018年より、中堅アーティストを対象とした現代美術の賞「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)」を実施しています。各回の受賞者は2組で、複数年にわたる支援の最終年に、東京都現代美術館で受賞記念展を開催します。

第3回受賞者の志賀理江子と竹内公太による本展には、「さばかれえぬ私へ/Waiting for the Wind」という言葉を冠しました。この言葉は、TCAA授賞式から始まった志賀と竹内の対話の中から生み出された、いわば本展で唯一の2人の共同作品と言えるものであり、人々が抱える内面世界への呼びかけでもあります。

2011年の被災後、突如始まったあらゆる分野での復興計画に圧倒された経験を、人間が「歩く」営みとして捉えなおした志賀、第二次世界大戦時の兵器「風船爆弾」のリサーチにもとづき、過去の出来事–アーティスト–鑑賞者の「憑依の連鎖」による新作を発表する竹内。東日本大震災の爪痕が大きく残された宮城、福島をそれぞれの拠点として活動する両者の作品は、その方向性は違えども、対話の中で見出された共通の認識を持ち、ある部分では作品が重なり合うように展示空間を構成します。

( 「さばかれえぬ私へ 」公式ページより引用)

 

展示の様子はこちらのフォトレポートに多く写真が掲載されている。

www.art-it.asia

 

東日本大震災第二次世界大戦という近代の日本にとって大きな出来事をそれぞれ捉えた作品は、辞書が定義するような「美」よりもジャーナリズム的な側面が強く、見る側を圧倒する。

抽象的な感覚に落とし込まず、映像や資料、写真、実際にそこにあったもの、そこにいた人の言葉で作り上げられた展示は生々しさ、痛々しさすら感じた。

 

志賀さんの作品では、東日本大震災によって浮き彫りになった都市による地方搾取の構造、「復興」の大きな計画に翻弄される地元の人々の姿が、映像の語り口からはっきりとその姿を見せる。

竹内さんの作品では、第二次世界大戦末期に日本軍が開発した「風船爆弾」について、文章が、資料がその存在を語る。

 

二つの展示が示す問題・出来事は、決して私たちと無関係ではなく、かといって私たちはその罪を背負うのか?裁かれる存在なのか?と考えると口を閉ざしてしまう。

「さばかれえぬ私へ」という展覧会のタイトルは、鑑賞者である私たちのことも背後から指しているように感じた。

 

中世の絵画などでも残酷な出来事が描かれていたり、その作品のルーツとなった思想や出来事を知り苦しくなることがあるが、自分が今生きている世界で起こっていることとなると苦しさと同じくらいの無力感に苛まれる。

以前、エコー検査のように自分の尺度や感覚が知れるから美術が好きということを書いたが、同時に知りたくないものも見えるのが美術だなと改めて感じた。(そこも含めて好き)

 

「私たちは過去に起きた出来事を見ることはかなわない。だが、風船爆弾を作った人々やこの爆弾が見たであろう光景、現地で発見された痕跡を作品に提示することで、鑑賞者と疑似的な体験を共有できるのではないか。すべてが事実に基づく「証拠」とは言えないが、見る人の想像力を動かすトリガーになりえると考えている」(竹内公太

www.tokyoartbeat.com

 

近い感情を持ったのが、MOTコレクション 被膜虚実/Breathing めぐる呼吸 内の一作品。

 

MOTコレクション 被膜虚実/Breathing めぐる呼吸

百瀬文さんの作品「山羊を抱く/貧しき文法」は、身体観の移ろいと生への眼差しに着目したコレクション展の中でも一際異彩を放っていた。

 

《山羊を抱く/貧しき文法》(2016)は、フランス人画家が描いた、非白人によるヤギの獣姦の風刺画を百瀬が食紅で模写し、実際にヤギに見せて食べさせようとするプロセスの記録映像だ。

ヤギに向かい合う百瀬が手に持つ綱は、「私たちも管理された家畜状態である」という紐帯を象徴的に示すが、その綱を手放すことはなく、拘束し続ける両義性を帯びてもいる。ヤギは最後まで模写の絵を食べてくれず、百瀬自身が紙を丸めて飲み込む衝動的なラストも含め、どう踏み出せばよいかわからない宙吊り感が残る。

(引用元は2021年の展示時のレビュー)

https://artscape.jp/report/review/10172425_1735.html

《山羊を抱く/貧しき文法》について百瀬文による解説

東京とモンゴルで撮影された映像。インターネット上の日英同盟の箇所にイギリス海軍日本海軍へ性欲処理用に大量のヤギを送ったという真偽不明の逸話があり、性欲処理対象としてのヤギ、支配・被支配地域で女性という痛みの共有を、自分の女性身体性と記憶を通して他者であるヤギと交流できないか考えた。

フィリア=獣姦という言葉をWikipedia上で検索すると出てくる諷刺画を、食べられるインクで模写してヤギに食べてもらうことで歴史を共有しようとしたが、結局パフォーマンスでは手綱を外すことができず、動物と人間の関係、被支配支配関係を自分もなぞってしまい、ありとあらゆるもくろみは破綻し、描いた絵も自分が食べることになった。どうなるか分からないまま撮影し、結局失敗するということまで撮影した。連帯やままならなさのメタファーになるのかもしれない。

note.com

 

映像としては、百瀬さんがモンゴルの草原の中でヤギと向かい合う穏やかな画なのだが、その背後にあるものは重く暗い。

関係性の痛みを共有する目的だったはずが、結果としてヤギの手綱を握ったまま、自分の作品のために何かしらの行動をさせるという支配・被支配の構図をなぞってしまう。

画面の向こうの鑑賞者である自分が「人間」という立場でものを見たらいいのか、「女性」という立場で感覚を共有したらいいのか、感情の置き所が分からなくてぼんやりと眺めてしまった。

人間と動物の支配・被支配の関係は、作家とモチーフにも置き換えられ、「作品」という言葉のもとに色々なことが許される芸術、「作品」の暴力性も感じた。

 

3つの展示を通して

「作品」の暴力性の話をしたが、そもそも「作品」とはなんだろうか。

紙の資料は作品じゃないけど、額装して美術館の壁にかければ作品なのか?

ホームビデオは作品じゃないけど、映画は作品なのか?

既製品の服は作品じゃないけど、Diorのドレスは作品なのか?

 

特に現代美術と言われる分野において、この定義は簡単には語れない。

今、東京都現代美術館で行われている3つの展示は、美術とは?美術館とは?を考える構成になっているように感じた。

 

私のまだ固まりきっていない「作品」の定義は、「誰かの心を揺らすために作られたもの」である。

今後も様々な「作品」に出会う中で、より確信できる言葉を獲得したい。

 

www.mot-art-museum.jp

www.mot-art-museum.jp