ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会|森美術館

配信始めて以降バタバタしていてレポート書けてないな~、最後に書いたのいつだっけな~と思ったら3か月前でひっくり返りました。お久しぶりの更新です。

今回ご紹介するのは、「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」(会期は2023年9月24日まで)

1990年代以降、現代アートは欧米だけでなく世界の多様な歴史や文化的観点から考えられるようになりました。それはもはや学校の授業で考える図画工作や美術といった枠組みを遙かに越え、むしろ国語・算数・理科・社会など、あらゆる科目に通底する総合的な領域ともいえるようになってきました。それぞれの学問領域の最先端では、研究者が世界の「わからない」を探求し、歴史を掘り起こし、過去から未来に向けて新しい発見や発明を積み重ね、私たちの世界の認識をより豊かなものにしています。現代アーティストが私たちの固定観念をクリエイティブに越えていこうとする姿勢もまた、こうした「わからない」の探求に繋がっています。そして、現代美術館はまさにそうした未知の世界に出会い、学ぶ「世界の教室」とも言えるでしょう。
本展は、学校で習う教科を現代アートの入口とし、見たことのない、知らなかった世界に多様な観点から出会う試みです。展覧会のセクションは「国語」、「社会」、「哲学」、「算数」、「理科」、「音楽」、「体育」、「総合」に分かれていますが、実際それぞれの作品は複数の科目や領域に通じています。また、当館の企画展としては初めて、出展作品約150点の半数以上を森美術館のコレクションが占める一方、本展のための新作も披露され、54組のアーティストによる学びの場、「世界の教室」が創出されます。

(「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」公式ページより引用)

『現代美術館はまさにそうした未知の世界に出会い、学ぶ「世界の教室」』…!なんていい言葉…!
私は現代美術が好きなのですが、作品に出合えば出会うほど世で言う「美術」の世界だけではない、社会に根差していたり、繊細な科学の世界に通じていたり、人間の身体での表現だったり、たくさんの世界への扉がそこに繋がっています。
それを科目に見立てて展示するなんてもうコンセプトだけで面白くてわくわくで観に行ってきました!

今回は、「国語」「社会」「理科」の分野から1作品ずつをご紹介します。

※この文章は個人の感想であり、正解や作り手の意図を探るものではありません。
また、これを読むあなた固有の鑑賞体験を阻害しようとするものでもありません。

 

国語のセクションより
「見えるものと見えないもののあいだ」シリーズ/米田知子

「見えるものと見えないもののあいだ」(1998-)は米田の代表的シリーズのひとつで、ジークムント・フロイト谷崎潤一郎など歴史に大きく翻弄された近現代の知識人が実際に使用していた眼鏡と、彼らにゆかりある文章や写真・楽譜などを組み合わせてモノクロ写真に収めたもの。作家は、「当時の歴史背景や生活の一部を垣間見、そこで葛藤する彼らの精神を表現することを試みた」と述べる。

www.mori.art.museum

こちらの作品のシリーズは、近現代の作家や建築家、心理学者などが実際に使用していた眼鏡と、彼らにまつわる文章や楽譜を組み合わせて撮ったモノクロ写真です。
例えば、写真一番奥(右)は、「細雪」などの小説で知られる谷崎潤一郎が40代以降、その生涯を終えるまで連れ添った妻であり、「細雪」のモデルにもなった松子にあてた手紙を谷崎の眼鏡を通して捉えた作品。
2015年に谷崎と松子や、その妹重子らの間で、谷崎が松子と出会った27年から谷崎晩年の63年までの36年間に交わされた手紙計288通を遺族が保管していたことが発表されましたが、その中では恋愛観などに加え戦時下の様子も細かに記されていたそう。

他には、こちらの写真には写っていませんが《フロイトの眼鏡―ユングのテキストを見るⅡ》という作品も展示されています。

www.mori.art.museum


フロイトは「無意識」という状態を初めて発見した心理学者・精神科医です。
そして、この眼鏡越しのテキストの著者、ユングもまた心理学者・精神科医
ユングは元々フロイトの弟子でしたが、「無意識」についての意見が相違したことで決別しました。
このテキストはユングフロイトの「リビドー論」を批判したものだそうですが、元弟子が己の理論を批判する文章を読むフロイトはどんな気持ちだったのでしょう。

愛する妻への手紙、決別した弟子からの批判的論文。
どちらも眼鏡越しに文章を読むという行為は同じですが、そこに渦巻く感情は全く別。
よく「この時の主人公の気持ちを考えよ」なんて問題が国語のテストでは出ますが、このシリーズも構図はほとんど一緒でも作品それぞれの登場人物によって伝わる感情は異なるところがまさに「国語」で面白いです。

 

社会のセクションより
「見えざる手」/田村友一郎

本作で田村は、愛知県瀬戸市常滑市の特産品であり、戦後、海外で人気を集めたノベルティと称される陶製人形産業の盛衰に着目した。彼はこの産業の衰退の契機となったのが、1985年にニューヨークで締結された「プラザ合意」だったという仮説を立て、会議に参加した当時の先進5か国、日米英仏西独の蔵相の顔を模した人形浄瑠璃風の陶製オブジェを制作した。さらに経済学者のアダム・スミスカール・マルクスジョン・メイナード・ケインズが黒衣姿で会話を交わす映像が、3画面で展開される。楽観的な自由主義経済論や、資本主義は共産主義への通過点であるといった三者三様の立場から、現在までに起きた経済上の事象についての時空を超えた語らいが、黒衣たちによって繰り広げられる。
陶製人形のノベルティは、プラザ合意後の円高によって輸出競争力を急激に失ったが、今日、為替や株価の急落により一瞬にして財産を失うリスクは当時よりも高い。本作のタイトルはスミスの言葉の引用であり、作品の終盤では心臓発作で他界したケインズの心臓をマッサージする手にも言及されるが、今日、誰の手によって世界の経済は操られているのか、その黒衣の手によって私たちは生かされているのか否か?などの問いを、本作はユーモアたっぷりに仄めかすのである。

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この作品は社会科の中でも特に経済を扱っています。経済が美術作品になるっていうだけでもうおもしろい…!
映像・実際のプラザ合意で撮影された写真・プラザ合意に出席した各国の財政大臣5名の陶製オブジェから構成された作品。
ちなみにプラザ合意とは、1985年に日米英仏西独の会議で締結された主に日本の対米貿易黒字の削減の合意の通称。つまりは、そのころ貿易で絶好調だった日本に対する介入というか調整というか圧力というか…。ここから日本の経済成長は落ち込むことになります。
映像ではまずプラザ合意に出席した5名の思惑(「ここで手柄をあげて出世したい」とか)「他の政治家より抜きん出たい」とか)や国内でのポジションが語られ、その後黒子として現れる3人の経済学者、アダム・スミスカール・マルクスジョン・メイナード・ケインズが「現在」からプラザ合意、そして今に至る経済のありかたについて語ります。
語りが落語みたいで、それぞれのキャラクターも立っていて20分あっという間に見てしまいました!感覚としてはNHK教育の番組。高校の経済の授業を思い出しながら、「マルクス共産主義的な視点からこう言うだろうな~」なんて本当にキャラクターのように見るのも面白かったです。

映像作品ってなかなか全部見るのは難しい中で、ユーモアを交えて鑑賞者に「見せる」つくりと、その中でも「経済は一体だれが動かしているのか?(=私たちは誰に生かされているのか?)」という鋭い問いを投げかけるバランスがクールな作品でした。

 

理科のセクションより
「Root of Steps」/宮永愛子

本展のための新作「Root of Steps」はナフタリンで作られた複数の靴からなるインスタレーションです。光を発しながら佇む靴は、森美術館が位置する六本木にまつわる人々が履いていた靴をもとにしています。その持ち主は、美術館スタッフ、俳優、金融業関係者、アートコレクター、子どもなど、職業や年齢もさまざまですが、全員が六本木ヒルズやその周辺で仕事や生活をしている人たちです。
 地上約230メートルにある森美術館からは、世界中から人々が集まり、行き交い、目まぐるしく変化し続ける東京の姿を一望できますが、その風景の中に個の姿をしっかりと見ることは難しいかもしれません。宮永が集めた靴の持ち主たち、そして来場者の皆さん一人ひとりも、この都市を構成するかけがえない個々の存在です。ナフタリンは常温で昇華するため、時間とともに靴の形は無くなってしまいますが、再結晶することでどこかに存在し続けます。宮永は本作を通して、移ろう儚さというよりも、変化しながらも、たとえ見えなくてもその場所に存在することの確かさを表現しているのです。
(本展キャプションより)


ナフタリンとは、炭化水素の一つで白色または無色の結晶。常温で昇華(固体から、液体を経ずに直接気体になること)するのが特徴で、日常では防虫・防臭剤などとしてよく使用されています。
この作品はそんなナフタリンで作られた複数の靴からなるインスタレーション。つまりは時間とともに形を失い、最終的にはすべて小さな結晶へ変化します。
それは思い出が少しずつ薄れていくように、人や動物の命が移ろうように、または場所が住んでいる人や環境が変わっていくようで、最初はなんだか少し切なさのようなものを感じていました。
けれどこの作品は、そんな変化の「失われるということ」よりも、それが世界には形を変えても留まり続けていることを教えてくれます。
だから、たとえ忘れてしまった経験も、もう会えなくなった人たちだってその思い出や記憶はどこかで自分を構成してくれるし、きっと誰かにとっての自分もそうかもしれないと思うと、いつか自分が消えてしまう時がきてもきっと大丈夫だなとほっとして、少し強くなれるような気もするのです。

 

収蔵作品が多い展示の魅力

今回の展示は出展作品約150点のうち半数以上を森美術館のコレクション作品で構成しているということも特徴。やっぱりその美術館自身が収蔵している作品だからこその展示方法や見られる距離の近さ、作品理解もあって素敵だな~と思いました。あと森美術館だとコレクションがデータになっているから引用しやすくてとってもありがたかったです…!
ついつい企画展にばかり足を運びがちですが、それぞれの美術館の個性と魅力がより光るコレクション展も訪れたいなと感じました。

 

www.mori.art.museum